コノワタ雑記

大体なんでも吐き出す

思想の評価と人物評価と正のフィードバック

Xで思想の話はしづらい

近頃、X(旧twitter)は発言しづらくなってきたように思う。 それは別に、X全体の雰囲気として私のような人間が発言しづらくなったとかそういう大きな話ではない。どちらかというと、私個人のXの使い方として、自分の考えていることをXで発言するのがためらわれるようになったという話だ。

私はXを10年以上使ってきた。10年以上、ほぼ毎日何かしらポストしてきた。こうして書くとかなりマメな人間のように見えるか、かなりおかしい人間のように見えるような気もする。実態としては後者であるというのが正直なところだ。私はおかしい側の人間で、高校時代や大学時代には頭に浮かんだことをなんでもツイート(ポスト)しては、知り合いからのふぁぼ(いいね)をもらって承認欲求を満たしていた。

当時の私は、今に比べていわゆる「偏った思想」をツイートしていることが多かったと思う。「偏った思想」と言っても、「大東亜共栄圏を復活させよ」とか「男は黙って苦難に耐えよ」とかいうような、右とか左に偏った話ではない。もちろんそういうものもあったかもしれないが、大部分は「人間とは全て糞袋である」とか、「一切は虚無に還る」とか、厨二っぽい、主語の大きいものが多かったと記憶している。

一方で、冒頭の繰り返しになるが、現在ではそのようなことをXでポストすることはほとんどなくなった。年齢を重ね、経験を積み、環境が変化たことによって、「人生とは儚い」的な主語の大きい思想を信じなくなったという話ではない。実のところ、自己認識としては中年になっても心は厨二病を引きずったままで、依然として主語の大きな話をすることが好きなままだ。しかし、そういったことをXでポストしようとするたび、立ち止まって「やっぱりやめておこう」という気持ちになって書いていたものを消してしまうことが多くなった。

なぜ思想の話をXでポストできないのかというと、一つには、繋がっている人が変わってしまったというのがありそうだ。以前のように気の置けない友人ばかりと繋がっているのではなく、仕事の知り合いや、趣味の活動で知り合った人もXでつながるようになったので、関係があまり深くない人に見られれて誤解を招くことを恐れるようになった。学生時代はそれで誤解を招いたとしても、仲良くしている少数の人がわかってくれればそれでいい、という態度を貫き通せたけれども、社会に出て、自分の持つ人間関係に占める「浅いつながり」の割合が大きくなってくると、そうも言っていられなくなった。

もう一つの原因として、Xで目に入るものが変わったというのもある。学生時代には、私と同じようにTwitterで思想の話をする友人がいて、彼らのツイートを眺めて刺激を受けては自分も似たような思想の話をツイートしていた。しかし、私のように10年つぶやき続ける人は減ってしまったので、そういう刺激を受けることも今では減ってしまった。かわりにおすすめタイムラインを眺めるのだが、アルゴリズムが流してくるポストの性質があまりよくない。大抵、思想の話をしていると老若男女の分断を煽り、憎悪を掻き立てるような話がおすすめタイムラインに増えてゆく。自分も大概共感されない思想を持った人間ではあるが、顔の見えない他人を呪うような考えは好みではないし、見ていて疲れるからなるべく話題にしたくない。結果的に、嫌な話が流れてこないよう、犬猫や推しのVtuberのイラストを大量にいいねしている。こうなっては見えるものはkawaii動画とイラストばかりになるので、ランダムに思考をかけ立てるようなポストは流れてこなくなる。そこから刺激を受けて考えごとをすることはほとんどない。

はてなブログへの回帰

しかし、思想の話をしないからといって、思想の話をしたくないというわけではない。頭の中に浮かぶいろいろな考えごとをまとめて文字にしてインターネットに流すことは楽しいと感じるし、10年以上続けてきた習慣でもある。そういうわけで、X以外の媒体でこの習慣を続けようという気になった。

媒体を選ぶにあたっては、ブログサービスが良いと考えた。自分は思想をインターネット上に公開したいのであって、誰も見えないところに日記のように書くのは少し違うと思ったからだ。そもそも、人に見られるかもしれないという前提がなければ、言葉にするモチベーションも湧いてこない。関係が浅い知り合いに見られたくないのではなかったか、とも我ながら思うが、わざわざブログにアクセスして、長々と文章を読んでくれる人であれば、関係が浅くとも自分に興味を持ってくれているのだろう。そういう人が自分の書いたものを目にすることを恐れる気持ちはなかったし、むしろ1人や2人いてほしいとさえ思えた。

最近ではnoteが流行っているから、最初はnoteを使おう思った。しかし、さっそくアカウントを作成しようとスマホを取り出したところで、ふと、はてなブログを開設していたことを思い出した。かなり昔に作って放置していたものだ。たしか、勉強したことをアウトプットするために開設したのだった。アウトプットというものをするには時間も手間もかかる。不精な自分には、そのブログは続かなかった。

その時と同じように、思想を話したいとか言ってもそれほどマメにするまい、どうせすぐに飽きる。それならば新たにnoteアカウントを作るよりも、すでにあるブログにまずは投稿してみた方が早いんじゃないだろうか。どうせnoteを開設したからといって、収益化をしたいわけではないし、わざわざお金を払ってまで自分のような人間の考えを知りたいと思う者もいるまい。そう思って、私はかつてのブログに戻ってきた。

すっかり忘れたパスワードを作り直し、ブログを開くと、6年前のやる気に満ちた自分が書いた記事やプロフィールが残っていた。趣味は勉強と書かれていたし、プロフィールには「勉強するために就職した」などと書かれている。ブログタイトルも「勉強し続けたい」とかそんなのだ。自分で言うのも何だが、若々しく、熱意にあふれた勤勉な若者という印象を受けた。最近は勉強することもなく、暇さえあれば布団に転がってダラダラとショート動画を眺めている身である。こんなプロフィールを掲げ続けるのは恥知らずのように思われた。そこですっかりプロフィールを書き換え、ブログタイトルも自分のXのアカウント名がナマコっぽいので「コノワタ雑記」と改めた。名付けてみると、酒好きの中年がダラダラやっていそうな感じがしてくる。最近腹回りが気になってきた今の自分には、実にしっくりきた。

本題

そういうわけで、今後はこのブログに考えたことを書き出していく。しかし、今日書きたかったことは、Xが使いづらいとか、放置していたブログを再開したとかいう話ではない。思想と人物評価の話だ。私達は、思想の中身をそれ自体吟味するときに、その思想を発した人物に対する評価を同時にしている。今日はそういう話をしたい。

例えば、同じ「外国人による犯罪が問題だ」というような発言をとってみても、それが見ず知らずの中年男性から発されるものか、ホリエモンのような影響力のある有名人から発されるものかによって、受け手の反応は大きく異なるだろう。後者であれば真剣に発言内容を吟味する人が多いだろうが、前者の発言を真に受ける人はほとんどいない。それどころか、発言者の人格を疑い、危険な人物としてレッテルを貼ることもあるだろう。

多くの人が権威主義者で、思想は何を言ったかよりも誰が言ったかが重要だという話をしたいわけではない。実際、どれだけ信頼のおける人物が言ったことであったとしても、その発言内容を受け入れるべきかどうかの判断において、発言の中身を吟味しない人はほとんどいるまい。例えばあなたが最も信頼している人物を思い浮かべて欲しい。次にその人物の口からあなたが最も忌み嫌う内容の考えが発されたとする。あなたはそのときどう思うだろうか。無批判にその発言を受け入れるだろうか。そうではなく、「なぜそんなことを言うのだろう?何か嫌なことでもあったのだろうか?」と考えるのではないか。このことから、発言者が発言内容より常に重要というわけではないことが分かる。

一方で、発言内容を受け入れるにあたって、発言者が誰であるかが重要なこともある。例えば自分が何かのエンジニアで、A案とB案のどちらの実装にするべきか迷っているとする。このときに、ちょっと頼りない後輩エンジニアから「A案がいいと思います」と言われたら、無批判に受け入れるだろうか。多くの人は、まずはその意見の根拠を聞くのではないか。一方で、同じことを信頼できる先輩エンジニアから言われれば、無批判に受け入れる人が多いのではないだろうか。

以上のことから、我々は思想内容を受け入れるべきかどうかを評価する「前に」人物に対する評価を参照しているのだと考えられる。発言者の評価が良ければ、内容の評価にも加点が入り、受け入れやすくなる。逆に人物評価に劣る場合に思想を受け入れてもらうには、内容の説得力を上げなければならなくなる。これは大学入試のセンター試験と二次試験の関係に似ている。センター試験の点数が良いと、二次試験にセンターの点数が加点されるため合格しやすくなる。一方で、センターの点数が低いと、合格のためには二次試験で点数をとって挽回しなければならなくなる。

ところで、大学によってはセンター試験での足切りがある。センターの点数が基準点に満たなければそもそも二次試験を受けることすらできないというやつだ。思想と人物評価もこれに似ている。思想の内容がなんであれ、そもそもそれを発言する人物に対する評価が低ければまともに取りあってもらえることすらないのである。

ここで、先述のホリエモンの例に戻ろう。この例では「外国人による犯罪が問題だ」と発言した人に対して発言者の人格を疑うケースもありうると述べた。上述の検討では内容の評価の「前に」発言者の評価があると述べたが、このケースでは内容の評価の「後に」発言者の評価がなされていると言える。

例えば信頼している友人が受け入れがたい思想を発したとする。1回限りであれば友人の評価を落とすことはないだろう。何か嫌なことがあって、つい口をついてそのような発言がなされたのかもしれない、そう考えるだろう。ところが、その友人が繰り返しその受け入れがたい思想を述べるようになったらどうか。それが毎日、何年も続いたらどうか。友人が発言をするたびに、あなたは友人の評価を下方修正し、ついにはその友人に対する信頼は無に帰してしまうのではないだろうか。

反対に、全く見ず知らずの人だったとしても、ある時興味を持って話してみたら考えが近いということが分かり、仲良くなるということもある。すると、その人の言うことはますます信頼できるようになり、ますます評価が上がる。

このように、人物の評価と思想の評価との間には、思想の評価が人物の評価を更新し、その人物評価がさらに思想の評価を左右するというループ構造がある。前の評価がプラスであれば次の評価もプラスになりやすく、前の評価がマイナスであれば次の評価もマイナスになりやすい。このような評価のループのことを制御工学では「正のフィードバック」という。

制御工学において、正のフィードバックループをもつ系は不安定になりやすい。暴走しやすいというレベルで不安定である。最初の評価がちょっとプラスによるだけで、その後どんどんプラスに増幅し、ちょっとマイナスによれば急速にマイナスに減退する。

しかし、現実世界での人物と思想の評価の関係を思い返すと、単純な正のフィードバックループとは挙動が一致しないことにも思い当たる。マイナスの人物評価がある閾値を超えたとき、よっぽどのことがない限りそれ以上のマイナス評価にはならない。これは先に述べた足切りが発生するからである。すなわち、足切りによって思想内容の評価が行われなくなれば、人物評価の更新も止まるからである。プラス側の評価更新も似たようなもので、人物評価が高い人間が内容的に評価できることを述べたとしても、そこから人物評価をさらにプラスに上げることは少なくなる。「この人なら言ってくれて当然」というような事態が発生するのだ。いわば、プラスへの人物評価の更新幅が、更新を繰り返すごとに小さくなっていき、あるとき更新幅がゼロになってしまうと考えられる。そのため、現実の思想と人物評価の関係では、制御工学における正のフィードバックループを備えた系のように「暴走」することは極めて稀で、多くの場合はプラス方向への評価更新もマイナス方向への評価更新もある一定の範囲内に留まることになる。

そもそも、更新幅うんぬんの前に、人物評価と思想の評価の関係は厳密なフィードバックループとは全く異なる部分もある。厳密な正のフィードバックループでは、プラスの評価のあとは必ず絶対にプラス評価である。一方で現実の人間は、どれだけ評価のよい人間であったとしても受け入れがたいことを言うことがある。プラス評価の人間が必ずプラス評価の思想を述べるとは限らないのだ。この意味で、厳密な意味での正のフィードバックループとは異なる。

このような根本的な違いにもかかわらず、私は、人物評価と思想の評価との間に、正のフィードバックループに「よく似た」構造があると指摘することには意味があると思う。先に述べたように、正のフィードバックループを持つ系は出力が不安定になる。同様に、人物評価と思想の評価もその構造ゆえに不安定なものなのではないだろうか。有名人がちょっとした不祥事で大きく評価を落とすように、人物評価と思想の評価の間にはちょっとしたことで評価が逆転するような構造が本質的に組み込まれていると言えるのではないだろうか。ひょっとしたら、「口は災いの元」ということわざは、正のフィードバックループの暴走のごとく、制御できない評価の不安定さが天災のように感じられたという、人々の実感から生まれたのかもしれない。

きっと、私がXで思想の話を恐れるようになったのは、この不安定さを恐れるようになったからなのだ。学生時代のように深い付き合いの友人同士であれば、友人からの人物評価がプラス側に振れていると信じられたので、1つの発言によって私自身の友人からの評価はそう大きく変動しないと思うことができた。加えて学生同士で自然に仲良くなった関係ということもあり、お互いの考えが近かったので、発言内容がマイナスに評価される恐れも少なかったと言える。だから安心して発言できた。しかし、関係値の浅い人とのつながりが増えた今となっては、何がマイナス評価になる発言であるか予想ができない。ちょっとしたことがマイナスにつながり、それが正のフィードバックループに似た構造によってさらに次のマイナスにつながり、挽回が難しくなっていくかもしれない。それならば、リスクを避けて何も話すべきではないと、きっと心の何処かで思うようになったのだ。

しかし、今日のこの記事のように、長々と身の上を書いた上であれば、考えを述べることにも抵抗はない。そもそもわざわざこんなブログにアクセスして、ここまで読んでくれる人間というのは、私という人間に少しばかりは興味がある人間に違いないのだ。だから、よっぽど変なことを書かない限り、私という人間が否定される恐れは少ないだろう。もちろん、読んだうえで評価がマイナスに転じるリスクもあるが、そのときはもう仕方がない。自分は自分に興味を持ってくれる人間に対して、自分自身が納得できると思えることを言葉を尽くして語った。そのうえで考えが合わないのであれば、それはそういうものであると諦めをつけることができるというものだ。そういうわけで、やはりXのような短文投稿サービスではなく、言葉を尽くすことのできるブログを選択したのは間違いではないのだ。

あとがき

やはり、自分の考えていることを書くというのは、すがすがしい気持ちになるものだ。自分という人間に興味があるかもしれない人に、ここまで読んでくれるかもしれないと期待しながら何かを書き、公開する。自分はこういうことに心が躍るのだと久々に実感することができた。願わくば、この記事が誰かの目に届きますように。そして今後も、そんなことを本気で考えながら、自分の考えを吐き出していけますように。

ここまで読んでくれた人へ、心から感謝します。

連続確率変数と確率密度関数

前回の記事では,離散確率変数と確率質量関数のことをお話した.

今回は,離散のそれに対応して,連続確率変数と確率密度関数の話をしようと思う.

連続確率変数が1点の値をとる確率

前回の記事で,個体差のある長さや重さは全て連続確率変数であることに触れた.そこでいま,連続確率変数$X$を,ランダムに選んだ人の身長とする.さて,$X$がちょうど170cmである確率$\mathrm{P}(X=170)$はいくらになるだろうか?

実際に今日街に出てみて,出会った人全員の身長を測り,170cmだった人の人数を出会ったた総人数で割ればそれらしい値が出るに違いない.コミュニケーションは苦手だが,やってみよう...などと,仮に実行しても,その試みはうまくいかない.(断っておくが決してコミュ障だからうまくいかないのではない.)

なぜなら,厳密に170cmの人を見つけるのは,ほとんど不可能だからである.例えば,メジャーで測ってちょうど170cmに見える人がいたとしよう.しかし,この人の身長をより精密な測定機器を使って厳密に測定したら,170.02cmだった.これは厳密にちょうど170cmであるとは言えない.

「じゃあ,どれくらいの精度ならいいの?」という声が出てきそうだが,どれくらいも何もない.ちょうど170といえば,それは厳密にちょうど170である.170.001でもなく,169.9999でもなく,整数の170なのである.

「いや,そんな無茶苦茶な話にしたら,確率なんてゼロに決まってるでしょう」という声が聞こえてきそうだ.その通り.おそらく,70億人の世界人口のうち,ぴったり厳密に整数値の170cmになる人はいないだろう.もしかしたら奇跡的に,神の気まぐれかなにかで,1人くらいはちょうどぴったり厳密に170cmの身長の人もいるかもしれないが,そのような人の人数は70億の分母に比較すればほとんどゼロと言える少なさであることが予想できる.

そして,かりに1人そのような人がいたとしても,今度は,身長が169.9をとる確率,169.99をとる確率……というふうに確率変数$X$のとる値$x$を少しずつ動かして行けば,どう考えたってほとんどの場合で$\mathrm{P}(X = x)$はゼロだろう.

では,連続確率変数がいかなる値をとる場合も,その確率は正確にゼロなのだろうか?

いや,それは違う.

例えば,身長なら,確かに厳密に170cmの人間は1人いるかいないかだが,誰か1人の身長を測れば,必ず確率変数$X$は何らかの実数値をとるといえる.それは,172.0851463...cmかもしれないし,168.45395005...cmかもしれないが,確実に何らかの値を取るのである.

すなわち,連続確率変数$X$について,それがどんな値をとる場合にも正確にゼロであるとはいえない.連続確率変数$X$は確かに何らかの値をとる.ただし,その実数値をとる確率は非常に小さく,極めてゼロに近い確率であるというだけだ.厳密な議論をすれば,無限小になるらしい.

連続確率変数が区間内の値をとる確率

以上見てきたように,連続確率変数$X$が1点の値$x$をとる確率$\mathrm{P}(X=x)$は,変数$x$の値が何であれ,無限小になる.

どんな値をとっても同じ無限小という確率になるのであれば,連続確率変数$X$について確率$\mathrm{P}(X=x)$を考える意味はない.

では,どのような値だったら意味があるのだろうか?

もう一度,確率変数$X$は,ランダムに選んだ身長の値をとるとする.

さっきはちょうど170cmになる確率を考えたが,こんどは,$X$が170以上175以下になる確率を考えよう.文字を使って表せば,

$$\mathrm{P}(X\in[170,175])$$

というように表す.

この確率だったら,無限小にはなるまい.
実際,ちょっと人の多いところへ出て周りを見渡せば,身長が170cmから175cmの間に入る人はそこそこ目に入るだろう.あきらかに無限小にはならないだろうことが実感できるのではないだろうか.

以上のことから分かるように,連続確率変数$X$では,$X$が1点の値をとる確率を考えても意味はなく,$X$がある区間$[a,b]$の中の値をとる確率$\mathrm{P}(X\in[a,b])$を考えることが一般的である.

確率密度関数

連続確率変数について,どのような確率を考えれば意味があるかという話をしてきた.
ここからは,離散確率変数における確率質量関数に相当するものを考えていこう.

そこで,すこし回り道になるが,再び連続確率変数$X$が1点の値$x$を取る確率を考える.ただ,今度は前に考えたのよりも抽象的に,文字と式を使って話を進める.

まず,連続確率変数については区間内の値をとる確率を考えるのだったから,区間の確率から話を始めよう.

確率変数$X$が,値$x$以上$x + \delta x$以下の値をとる確率を考える.その確率は,このように書ける.

$$\mathrm{P}(X\in[x, x+\delta x])$$

ここで$\delta x$を無限小に近づければ,$\mathrm{P}(X=x)$に近いものが得られると考える.

$$ \mathrm{P}(X=x)= \lim_{\delta x\to 0}\mathrm{P}(X \in[x,x+\delta x]) $$

左辺を変形すると,

$$ \eqalign{ \mathrm{P}(X=x) & = \lim_{\delta x \to 0}\left(\mathrm{P}(X\in(-\infty,x+\delta x])-\mathrm{P}(X\in(-\infty,x])\right) \cr &=\lim_{\delta x \to 0}\left(\mathrm{P}(X\leq x+\delta x)-\mathrm{P}(X\leq x)\right) }\tag{1}$$

ここで,$\mathrm{P}(X\in(-\infty, x])$は,「確率変数$X$が$x$以下の値を取る確率」のことである.少々読みづらいので,$\mathrm{P}(X \leq x)$と書きかえた.

さて,この$\mathrm{P}(X\leq x)$という確率は,変数$x$の値を決めてやればただ一つの値に決まると予想できる.すなわち,$\mathrm{P}(X\leq x)$は変数$x$についての関数だと考えられる.そこで,$\mathrm{P}(X\leq x) = F(x)$と書き直すと,式(1)は,

$$ \begin{align} \mathrm{P}(X=x)&= \lim_{\delta x\to 0}\left( F(x + \delta x) - F(x) \right)\cr &=F'(x)dx\cr &=f(x)dx \end{align}\tag{2} $$

となる.式(2)における関数$F(x)$の導関数$f(x)$のことを,確率密度関数(probability density function)という.また,確率密度関数積分$F(x)$を積分布関数(cumulative distribution function)という.

積分布関数を微分すると確率密度関数が得られるから,

$$F(x) = \int_{-\infty}^x f(z)dz$$

という関係がある.

また,累積分布関数$F(x)$は確率$\mathrm{P}(X\leq x)$に等しいから,

$$ \begin{align} \mathrm{P}(X\in [a,b]) & = \mathrm{P}(X\leq b) - \mathrm{P}(X\leq a)\cr & =F(b)-F(a)\cr & =\int_a ^ bf(x)dx \end{align} $$

が成り立つ.

確率密度関数の例
0以上10未満の実数を無作為に選ぶことを考えよう.確率変数$X$は0以上10未満のすべての値を同確立で取るものとする.

このとき,例えば$X\leq 3$となる確率は,$3/10$,$4\leq X \leq 6$となる確率は$2/10$となることが予想できる.これを満たすように累積分布関数を定義すると,

$$F(x) = \frac{x}{10}$$

となるので,確率密度関数は,

$$f(x)=F'(x)=\frac{1}{10}$$

となる.

まとめ

  • 連続確率変数の場合,確率変数$X$が,一点の値$x$をとる確率は無限小になる.
  • 連続確率変数$X$については,$\mathrm{P}(X\in[a,b])$のような区間の確率を考えることが一般的である.
  • 変数$x$に対して確率$\mathrm{P}(X\leq x)$を与える関数を,累積分布関数$F(x)$という.
  • 積分布関数$F(x)$の導関数$f(x)$を,確率密度関数という
  • 連続確率変数$X$が1点の値$x$をとる確率$\mathrm{P}(X=x)$は,確率密度関数$f(x)$を用いて,$f(x)dx$と表せる.

次回予告

正直これだけのことにこんなに労力を割くとは思わなかった.このあたりの話は自分で書いてみると案外難しい.

次回は平均と分散について書けたらいいな,という気持ちです.

確率論の初歩

仕事で統計を使うので,いろいろと調べていたら,基本的なところの理解がおぼつかなくなってしまった.そこで,確率論のいっちばんはじめのところから自分なりに整理してみようと思う.

この記事に書いてあること

  • 確率を伴う変数を確率変数という.
  • 確率変数が離散的な値をとるときは離散確率変数,連続的な値をとるときは連続確率変数という.
  • 確率変数が値xをとる確率を\mathrm{P}(X=x)と書く.
  • 確率質量関数p(x)とは,変数xに対して確率\mathrm{P}(X=x)を与える関数である.
  • たいていの場合,確率質量関数p(x)を,確率P(X=x)の略記と考えて構わない.

確率変数

ふつうの変数,例えば二次関数 y = x^ 2 の変数xなんかは,xの値が1になろうが2になろうが,そこに確率という概念は関わってこない.x は二次関数の定義域の中ならどんな値だって取りえて,そこに定義域以外の制限は存在しない.

しかし,「サイコロを一回投げたときに出た目の値をXとおく」と言ったときの変数Xには上の変数xにはない制限がある.

もちろん,サイコロは\{1,2,3,4,5,6\}のいずれかの値しかとらないという制限はある.しかし,これは上の「ふつうの変数x」にもかかるのと同じ種類の制限,すなわち定義域が\{1,2,3,4,5,6\}であるということに過ぎない.

二次関数y=x^ 2の変数xには無くてサイコロの目を表す変数Xにはある制限とは,確率だ.Xはサイコロの目の変数である以上,1から6の値をそれぞれ1/6の確率で取るという,いわば「値の取りやすさという情報をもった変数」なのだ.このような変数を,確率変数という.

確率変数の例
例えば,ボウリングで倒したピンの数なんかも確率変数になる.(ひょっとしたらボウリングの達人の場合は,確率など関係なく,0から10の好きな値にすることが可能なのかもしれないが,僕の場合は4とか5あたりが取りやすい値で,10になることはほとんどない.)

離散確率変数と連続確率変数

サイコロの目やボウリングの倒れたピンの数のような,離散的な値しかとらない確率変数のことを離散確率変数という.一方,連続的な値をとる確率変数を連続確率変数という.

連続確率変数の例
例えば,米びつから米粒を一粒だけ取り出すことを考えてほしい.重さは連続的な値をとるし,米粒の重さには確率的なばらつきがあるはずだから,このとき取り出した米粒の重さは連続確率変数だ.他にも,電車でたまたま隣に座った人の身長なんかもそうだ.個体差のある長さや重さというのはたいてい連続確率変数になる.

確率変数を使った確率の書き方

ここは確率論の混乱ポイントの一つだと思うので,しっかり整理しておきたい.

まず,さっきまで何の断りもなくやっていたことだが,確率変数は大文字のXYZを使うことが多い. あらためて言っておこう.

以下,サイコロを一つだけ投げた時に出た目を表す確率変数をXとしよう.
このとき,「サイコロの目が1になる確率は1/6.」という見慣れた表現は,下のように書く.

\displaystyle{ \mathrm{P}(X = 1) = \frac{1}{6}}

この表記法の,私なりの解釈を,少々くどいくらいかもしれないが述べておく.
まず,\mathrm{P}(\text{ほげほげ})が「ほげほげの確率」というニュアンスだ.そして,「サイコロの目が1」というのは,「サイコロの目を表す確率変数Xの値が1」ということだ.従って,「サイコロの目が1になる確率」は「X=1になる確率」つまり,「\mathrm{P}(X=1)」という風に書き表せるわけだ.

確率変数を使った確率の表記の例
コインを投げて表が出たときに確率変数Yは1,裏が出たときに0をとるとしよう.このとき,「コインの表と裏が出る確率はどちらも1/2である.」という表現は,

\displaystyle{
\mathrm{P}(Y=1)=\mathrm{P}(Y=0)=\frac{1}{2}
}

と書ける.

どんどん練習しよう.

「サイコロの目が1になる確率は1/6」 → \mathrm{P}(X=1)=1/6
「サイコロの目が2になる確率は1/6」 → \mathrm{P}(X=2)=1/6
「サイコロの目が3になる確率は1/6」 → \mathrm{P}(X=3)=1/6
「サイコロの目が4になる確率は1/6」 → \mathrm{P}(X=4)=1/6
「サイコロの目が5になる確率は1/6」 → \mathrm{P}(X=5)=1/6
「サイコロの目が6になる確率は1/6」 → \mathrm{P}(X=6)=1/6

目が痛い.こういう繰り返しを避けるためにも,一般化したい.
ふつう,物事を一般化するときには変数を使う.

\displaystyle{\mathrm{P}(X=x)=
\begin{cases}
    \frac{1}{6} & x=1,2,3,4,5,6\\
    0 & \text{それ以外}
\end{cases}}

ここで注意したいのが,変数xの使われ方だ.
確率変数Xと違って,小文字の変数xは確率を伴わない普通の変数だ.確率変数と違って,ふつうの変数の場合は小文字で書かれることが多い.
この辺を明示的に書かない入門書が多いので,混乱しやすい.

確率変数と変数を混ぜた表記の例
さっきのコインの例だと,

\displaystyle{\mathrm{P}(Y = y) =
    \begin{cases}
    \frac{1}{2} & y=1,2\\
0 & \text{それ以外}
\end{cases}}

ここでもYは確率変数,yは確率の伴わない普通の変数であることに注意したい.

確率関数

サイコロを6回投げたときに,1の目が2回出る確率を考えよう.
確率変数Xを1の目が出る回数とおけば,この確率は懐かしの高校数学の知識を使って,


\begin{aligned}
\mathrm{P}(X=2)&={}_6\mathrm{C}_2\left(\frac{1}{6}\right)^2\left(1-\frac{1}{6}\right)^{6-2}\\
&={}_6\mathrm{C}_2\frac{5^4}{6^6}\\
&\fallingdotseq0.2
\end{aligned}

と具体的に求められる.

これを一般化して,1の目がx回だけ出る確率は,

\displaystyle{\mathrm{P}(X=x)=\begin{cases}
{}_6\mathrm{C}_x\left(\frac{1}{6}\right)^x\left(1-\frac{1}{6}\right)^{6-x}&x=1,2,...,6\text{のとき}\\
0&\text{それ以外}
\end{cases}}

というふうに表せる.
くどいようだが,このxは確率変数ではなく,普通の変数だ.

ここで,変数xの値を一つ決めたら,それに対して,上の式を介して確率\mathrm{P}(X=x)が定まるということに注目してほしい.

変数に対して値が一つ定まる...つまりこれは関数になっているということに他ならない.

そこで上の式を関数っぽく

\displaystyle{p(x) = {}_6\mathrm{C}_x\left(\frac{1}{6}\right)^x\left(1-\frac{1}{6}\right)^{6-x}}

と書こう.

このように確率変数Xのとる値xに対して確率\mathrm{P}(X=x)を与える関数p(x)を,確率質量関数(probability mass function)という.

確率質量関数の例
サイコロを何回か投げたときに,x-1回目までは1以外の目が出続けて,x回目で初めて1が出る確率\mathrm{P}(X=x)は,

\displaystyle{\mathrm{P}(X=x)=\frac{1}{6}\left(1-\frac{1}{6}\right)^{x-1}}

である.
したがって,確率変数Xのとる値xに対して確率\mathrm{P}(X=x)を与える確率質量関数は,

\displaystyle{
p(x)= \frac{1}{6}\left(1-\frac{1}{6}\right)^{x-1}}

である.

離散確率変数Xについて考えるとき,確率\mathrm{P}(X=x)と確率質量関数p(x)が異なることはないので,p(x)\mathrm{P}(X=x)の略記だと説明する人もいる.ここでも,わかりにくければそう考えてもらって構わない.

実際,'Pattern Recognition and Machine Learning'にも,このように書いてある.

Thus the probability that B takes the value r is denoted p(B=r). Although this helps to avoid ambiguity, it leads to a rather cumbersome notation, and in many cases there will be no need for such pedantry. Instead, we may simply write p(B) to denote a distribution over the random variable B, or p(r) to denote the distribution evaluated for the particular value r, provided that the interpretation is clear from the context.

従って,Bが値rをとる確率はp(B=r)と表される.これは曖昧な表現を避けるのに役立つが,やや煩雑な表記になる.しかも,たいていの場合はそのように学者ぶる必要はない.それよりも,文脈から明らかなときは,単純にp(B)と書いて確率変数Bの分布を表したり,p(r)と書いてその分布がある値rに評価されたということを示すことにしよう.

ただ,この記事を書いた動機が,統計学を勉強してて「確率質量関数ってなんやねん!」となったことだった.
私みたいにある程度確率を勉強してから「わっから~ん」となった人の助けになれば幸いです.

まとめ

  • 確率を伴う変数を確率変数という.
  • 確率変数が離散的な値をとるときは離散確率変数,連続的な値をとるときは連続確率変数という.
  • 確率変数が値xをとる確率を\mathrm{P}(X=x)と書く.
  • 確率質量関数p(x)とは,変数xに対して確率\mathrm{P}(X=x)を与える関数である.
  • たいていの場合,確率質量関数p(x)を,確率P(X=x)の略記と考えて構わない.

次回予告

連続確率変数について,基礎の基礎を整理したいと思います.

ブログ開設の目的

これまでの私の「アウトプット」

以前から、学習したことを自分の言葉でまとめて、アウトプットすることで、学習効果を高めることができるよなぁ、と漠然と思っていました。

しかし、ここで言うところの「自分の言葉でまとめてアウトプットする」の内容がこれまでは明確ではありませんでした。

そのため、これまでやってきた「アウトプット」というやつは、

- 自分にだけわかる走り書き
- 内容は言葉以前の単語や落書きみたいな図と線
- その辺の紙に書きつけて見直さない
- 書いたそばからゴミ箱へ捨てるから残らない

というものでした。

これでも自分の中では学んだことを整理し、ちゃんと理解を組み立てられていたつもりだったので、これまでは大して気にしていませんでしたし、それだけで満足していました。

仕事中の気づき

しかし、今日、仕事中に、ちょっとした気づきがありました。

少し話がそれますが、私は仕事で製品不良のデータ分析をやっております。ざっくり言ってしまえば、大体1,000~3,000位の数のデータの中から、不良の多い製品の特徴を絞りだすというのが主な業務です。

加えて、分析で用いた考え方や計算手法などをドキュメントにまとめるのも仕事の一つに含まれます。

気づきがあったのは、このドキュメント作成の業務でした。

データ分析などと言っておきながら、恥ずかしながらこれまでは、単に平均を比較したり比を取ったりする程度で、あまり推測統計・確率論に触れるような分析はしてこなかったのですが、先日はじめて確率論を用いた不良分析を行う機会がありました。

正直、自分でも理解があやふやな確率密度関数だとか、中心極限定理だとか、ベイズの定理だとかを復習し、分析を完了させたのが先週末のこと。

今日はその時の分析手法をドキュメントにまとめていたのですが、この作業の中で、いつのまにか、どうすればその資料を読む人に分析の妥当性が伝わるか、どう書けばわかりやすく伝わるのか、と腐心しながら資料を作っていました。

加えて、そのようにすることで、自分でも理解がおぼつかないところが明らかになったり、あるいは、自分の理解の仕方が明確になったりしていったことに気づいたのです。

言い換えれば、人に説明するための資料を作成する事によって、私自身の学習内容を検証することができたのです。

このブログの目的

この気づきをもとに、私はこのブログを始めることにしました。それはつまり、このブログの目的は以下の通りだということです。

学んだ知識を検証するために、学習事項を人に説明すること

そんなわけで、ブログをやっていこうと思います。正直いつまでブログを続けていけるかわかりません。これまでの私の経験からすると、たいていの物事は3日程度で終わってしまうので、これもそうなってしまうかもしれません。

しかし、私は勉強することだけはなかなか人より好きなのです。これまで来る日も来る日も、もっと良い学習法はないか、もっと学ぶべき、面白いことはないかと探し続けてきました。したがって、案外、ブログを書くことが自分の学習を本当に効果的なものにしてくれるのならば、思ったよりは続くのではないかな、と思っています。