思想の評価と人物評価と正のフィードバック
Xで思想の話はしづらい
近頃、X(旧twitter)は発言しづらくなってきたように思う。 それは別に、X全体の雰囲気として私のような人間が発言しづらくなったとかそういう大きな話ではない。どちらかというと、私個人のXの使い方として、自分の考えていることをXで発言するのがためらわれるようになったという話だ。
私はXを10年以上使ってきた。10年以上、ほぼ毎日何かしらポストしてきた。こうして書くとかなりマメな人間のように見えるか、かなりおかしい人間のように見えるような気もする。実態としては後者であるというのが正直なところだ。私はおかしい側の人間で、高校時代や大学時代には頭に浮かんだことをなんでもツイート(ポスト)しては、知り合いからのふぁぼ(いいね)をもらって承認欲求を満たしていた。
当時の私は、今に比べていわゆる「偏った思想」をツイートしていることが多かったと思う。「偏った思想」と言っても、「大東亜共栄圏を復活させよ」とか「男は黙って苦難に耐えよ」とかいうような、右とか左に偏った話ではない。もちろんそういうものもあったかもしれないが、大部分は「人間とは全て糞袋である」とか、「一切は虚無に還る」とか、厨二っぽい、主語の大きいものが多かったと記憶している。
一方で、冒頭の繰り返しになるが、現在ではそのようなことをXでポストすることはほとんどなくなった。年齢を重ね、経験を積み、環境が変化たことによって、「人生とは儚い」的な主語の大きい思想を信じなくなったという話ではない。実のところ、自己認識としては中年になっても心は厨二病を引きずったままで、依然として主語の大きな話をすることが好きなままだ。しかし、そういったことをXでポストしようとするたび、立ち止まって「やっぱりやめておこう」という気持ちになって書いていたものを消してしまうことが多くなった。
なぜ思想の話をXでポストできないのかというと、一つには、繋がっている人が変わってしまったというのがありそうだ。以前のように気の置けない友人ばかりと繋がっているのではなく、仕事の知り合いや、趣味の活動で知り合った人もXでつながるようになったので、関係があまり深くない人に見られれて誤解を招くことを恐れるようになった。学生時代はそれで誤解を招いたとしても、仲良くしている少数の人がわかってくれればそれでいい、という態度を貫き通せたけれども、社会に出て、自分の持つ人間関係に占める「浅いつながり」の割合が大きくなってくると、そうも言っていられなくなった。
もう一つの原因として、Xで目に入るものが変わったというのもある。学生時代には、私と同じようにTwitterで思想の話をする友人がいて、彼らのツイートを眺めて刺激を受けては自分も似たような思想の話をツイートしていた。しかし、私のように10年つぶやき続ける人は減ってしまったので、そういう刺激を受けることも今では減ってしまった。かわりにおすすめタイムラインを眺めるのだが、アルゴリズムが流してくるポストの性質があまりよくない。大抵、思想の話をしていると老若男女の分断を煽り、憎悪を掻き立てるような話がおすすめタイムラインに増えてゆく。自分も大概共感されない思想を持った人間ではあるが、顔の見えない他人を呪うような考えは好みではないし、見ていて疲れるからなるべく話題にしたくない。結果的に、嫌な話が流れてこないよう、犬猫や推しのVtuberのイラストを大量にいいねしている。こうなっては見えるものはkawaii動画とイラストばかりになるので、ランダムに思考をかけ立てるようなポストは流れてこなくなる。そこから刺激を受けて考えごとをすることはほとんどない。
はてなブログへの回帰
しかし、思想の話をしないからといって、思想の話をしたくないというわけではない。頭の中に浮かぶいろいろな考えごとをまとめて文字にしてインターネットに流すことは楽しいと感じるし、10年以上続けてきた習慣でもある。そういうわけで、X以外の媒体でこの習慣を続けようという気になった。
媒体を選ぶにあたっては、ブログサービスが良いと考えた。自分は思想をインターネット上に公開したいのであって、誰も見えないところに日記のように書くのは少し違うと思ったからだ。そもそも、人に見られるかもしれないという前提がなければ、言葉にするモチベーションも湧いてこない。関係が浅い知り合いに見られたくないのではなかったか、とも我ながら思うが、わざわざブログにアクセスして、長々と文章を読んでくれる人であれば、関係が浅くとも自分に興味を持ってくれているのだろう。そういう人が自分の書いたものを目にすることを恐れる気持ちはなかったし、むしろ1人や2人いてほしいとさえ思えた。
最近ではnoteが流行っているから、最初はnoteを使おう思った。しかし、さっそくアカウントを作成しようとスマホを取り出したところで、ふと、はてなブログを開設していたことを思い出した。かなり昔に作って放置していたものだ。たしか、勉強したことをアウトプットするために開設したのだった。アウトプットというものをするには時間も手間もかかる。不精な自分には、そのブログは続かなかった。
その時と同じように、思想を話したいとか言ってもそれほどマメにするまい、どうせすぐに飽きる。それならば新たにnoteアカウントを作るよりも、すでにあるブログにまずは投稿してみた方が早いんじゃないだろうか。どうせnoteを開設したからといって、収益化をしたいわけではないし、わざわざお金を払ってまで自分のような人間の考えを知りたいと思う者もいるまい。そう思って、私はかつてのブログに戻ってきた。
すっかり忘れたパスワードを作り直し、ブログを開くと、6年前のやる気に満ちた自分が書いた記事やプロフィールが残っていた。趣味は勉強と書かれていたし、プロフィールには「勉強するために就職した」などと書かれている。ブログタイトルも「勉強し続けたい」とかそんなのだ。自分で言うのも何だが、若々しく、熱意にあふれた勤勉な若者という印象を受けた。最近は勉強することもなく、暇さえあれば布団に転がってダラダラとショート動画を眺めている身である。こんなプロフィールを掲げ続けるのは恥知らずのように思われた。そこですっかりプロフィールを書き換え、ブログタイトルも自分のXのアカウント名がナマコっぽいので「コノワタ雑記」と改めた。名付けてみると、酒好きの中年がダラダラやっていそうな感じがしてくる。最近腹回りが気になってきた今の自分には、実にしっくりきた。
本題
そういうわけで、今後はこのブログに考えたことを書き出していく。しかし、今日書きたかったことは、Xが使いづらいとか、放置していたブログを再開したとかいう話ではない。思想と人物評価の話だ。私達は、思想の中身をそれ自体吟味するときに、その思想を発した人物に対する評価を同時にしている。今日はそういう話をしたい。
例えば、同じ「外国人による犯罪が問題だ」というような発言をとってみても、それが見ず知らずの中年男性から発されるものか、ホリエモンのような影響力のある有名人から発されるものかによって、受け手の反応は大きく異なるだろう。後者であれば真剣に発言内容を吟味する人が多いだろうが、前者の発言を真に受ける人はほとんどいない。それどころか、発言者の人格を疑い、危険な人物としてレッテルを貼ることもあるだろう。
多くの人が権威主義者で、思想は何を言ったかよりも誰が言ったかが重要だという話をしたいわけではない。実際、どれだけ信頼のおける人物が言ったことであったとしても、その発言内容を受け入れるべきかどうかの判断において、発言の中身を吟味しない人はほとんどいるまい。例えばあなたが最も信頼している人物を思い浮かべて欲しい。次にその人物の口からあなたが最も忌み嫌う内容の考えが発されたとする。あなたはそのときどう思うだろうか。無批判にその発言を受け入れるだろうか。そうではなく、「なぜそんなことを言うのだろう?何か嫌なことでもあったのだろうか?」と考えるのではないか。このことから、発言者が発言内容より常に重要というわけではないことが分かる。
一方で、発言内容を受け入れるにあたって、発言者が誰であるかが重要なこともある。例えば自分が何かのエンジニアで、A案とB案のどちらの実装にするべきか迷っているとする。このときに、ちょっと頼りない後輩エンジニアから「A案がいいと思います」と言われたら、無批判に受け入れるだろうか。多くの人は、まずはその意見の根拠を聞くのではないか。一方で、同じことを信頼できる先輩エンジニアから言われれば、無批判に受け入れる人が多いのではないだろうか。
以上のことから、我々は思想内容を受け入れるべきかどうかを評価する「前に」人物に対する評価を参照しているのだと考えられる。発言者の評価が良ければ、内容の評価にも加点が入り、受け入れやすくなる。逆に人物評価に劣る場合に思想を受け入れてもらうには、内容の説得力を上げなければならなくなる。これは大学入試のセンター試験と二次試験の関係に似ている。センター試験の点数が良いと、二次試験にセンターの点数が加点されるため合格しやすくなる。一方で、センターの点数が低いと、合格のためには二次試験で点数をとって挽回しなければならなくなる。
ところで、大学によってはセンター試験での足切りがある。センターの点数が基準点に満たなければそもそも二次試験を受けることすらできないというやつだ。思想と人物評価もこれに似ている。思想の内容がなんであれ、そもそもそれを発言する人物に対する評価が低ければまともに取りあってもらえることすらないのである。
ここで、先述のホリエモンの例に戻ろう。この例では「外国人による犯罪が問題だ」と発言した人に対して発言者の人格を疑うケースもありうると述べた。上述の検討では内容の評価の「前に」発言者の評価があると述べたが、このケースでは内容の評価の「後に」発言者の評価がなされていると言える。
例えば信頼している友人が受け入れがたい思想を発したとする。1回限りであれば友人の評価を落とすことはないだろう。何か嫌なことがあって、つい口をついてそのような発言がなされたのかもしれない、そう考えるだろう。ところが、その友人が繰り返しその受け入れがたい思想を述べるようになったらどうか。それが毎日、何年も続いたらどうか。友人が発言をするたびに、あなたは友人の評価を下方修正し、ついにはその友人に対する信頼は無に帰してしまうのではないだろうか。
反対に、全く見ず知らずの人だったとしても、ある時興味を持って話してみたら考えが近いということが分かり、仲良くなるということもある。すると、その人の言うことはますます信頼できるようになり、ますます評価が上がる。
このように、人物の評価と思想の評価との間には、思想の評価が人物の評価を更新し、その人物評価がさらに思想の評価を左右するというループ構造がある。前の評価がプラスであれば次の評価もプラスになりやすく、前の評価がマイナスであれば次の評価もマイナスになりやすい。このような評価のループのことを制御工学では「正のフィードバック」という。
制御工学において、正のフィードバックループをもつ系は不安定になりやすい。暴走しやすいというレベルで不安定である。最初の評価がちょっとプラスによるだけで、その後どんどんプラスに増幅し、ちょっとマイナスによれば急速にマイナスに減退する。
しかし、現実世界での人物と思想の評価の関係を思い返すと、単純な正のフィードバックループとは挙動が一致しないことにも思い当たる。マイナスの人物評価がある閾値を超えたとき、よっぽどのことがない限りそれ以上のマイナス評価にはならない。これは先に述べた足切りが発生するからである。すなわち、足切りによって思想内容の評価が行われなくなれば、人物評価の更新も止まるからである。プラス側の評価更新も似たようなもので、人物評価が高い人間が内容的に評価できることを述べたとしても、そこから人物評価をさらにプラスに上げることは少なくなる。「この人なら言ってくれて当然」というような事態が発生するのだ。いわば、プラスへの人物評価の更新幅が、更新を繰り返すごとに小さくなっていき、あるとき更新幅がゼロになってしまうと考えられる。そのため、現実の思想と人物評価の関係では、制御工学における正のフィードバックループを備えた系のように「暴走」することは極めて稀で、多くの場合はプラス方向への評価更新もマイナス方向への評価更新もある一定の範囲内に留まることになる。
そもそも、更新幅うんぬんの前に、人物評価と思想の評価の関係は厳密なフィードバックループとは全く異なる部分もある。厳密な正のフィードバックループでは、プラスの評価のあとは必ず絶対にプラス評価である。一方で現実の人間は、どれだけ評価のよい人間であったとしても受け入れがたいことを言うことがある。プラス評価の人間が必ずプラス評価の思想を述べるとは限らないのだ。この意味で、厳密な意味での正のフィードバックループとは異なる。
このような根本的な違いにもかかわらず、私は、人物評価と思想の評価との間に、正のフィードバックループに「よく似た」構造があると指摘することには意味があると思う。先に述べたように、正のフィードバックループを持つ系は出力が不安定になる。同様に、人物評価と思想の評価もその構造ゆえに不安定なものなのではないだろうか。有名人がちょっとした不祥事で大きく評価を落とすように、人物評価と思想の評価の間にはちょっとしたことで評価が逆転するような構造が本質的に組み込まれていると言えるのではないだろうか。ひょっとしたら、「口は災いの元」ということわざは、正のフィードバックループの暴走のごとく、制御できない評価の不安定さが天災のように感じられたという、人々の実感から生まれたのかもしれない。
きっと、私がXで思想の話を恐れるようになったのは、この不安定さを恐れるようになったからなのだ。学生時代のように深い付き合いの友人同士であれば、友人からの人物評価がプラス側に振れていると信じられたので、1つの発言によって私自身の友人からの評価はそう大きく変動しないと思うことができた。加えて学生同士で自然に仲良くなった関係ということもあり、お互いの考えが近かったので、発言内容がマイナスに評価される恐れも少なかったと言える。だから安心して発言できた。しかし、関係値の浅い人とのつながりが増えた今となっては、何がマイナス評価になる発言であるか予想ができない。ちょっとしたことがマイナスにつながり、それが正のフィードバックループに似た構造によってさらに次のマイナスにつながり、挽回が難しくなっていくかもしれない。それならば、リスクを避けて何も話すべきではないと、きっと心の何処かで思うようになったのだ。
しかし、今日のこの記事のように、長々と身の上を書いた上であれば、考えを述べることにも抵抗はない。そもそもわざわざこんなブログにアクセスして、ここまで読んでくれる人間というのは、私という人間に少しばかりは興味がある人間に違いないのだ。だから、よっぽど変なことを書かない限り、私という人間が否定される恐れは少ないだろう。もちろん、読んだうえで評価がマイナスに転じるリスクもあるが、そのときはもう仕方がない。自分は自分に興味を持ってくれる人間に対して、自分自身が納得できると思えることを言葉を尽くして語った。そのうえで考えが合わないのであれば、それはそういうものであると諦めをつけることができるというものだ。そういうわけで、やはりXのような短文投稿サービスではなく、言葉を尽くすことのできるブログを選択したのは間違いではないのだ。
あとがき
やはり、自分の考えていることを書くというのは、すがすがしい気持ちになるものだ。自分という人間に興味があるかもしれない人に、ここまで読んでくれるかもしれないと期待しながら何かを書き、公開する。自分はこういうことに心が躍るのだと久々に実感することができた。願わくば、この記事が誰かの目に届きますように。そして今後も、そんなことを本気で考えながら、自分の考えを吐き出していけますように。
ここまで読んでくれた人へ、心から感謝します。